このお寺は・・・
二松学舎大学創設者ゆかりのお寺です
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実際寺は、二松学舎大学の創設者である三島中洲翁ゆかりの寺院です。 中洲翁は、江戸時代末期に生まれた漢学者で、14歳の時、備中松山藩の陽明学者・山田方谷に師事し、その後幕府の最高学府だった昌平黌で学びました。 明治5年には司法省に入り大審院判事など歴任後、同10年「漢学塾二松学舎」(現在の二松学舎大学)を創設。さらに、東京帝国大学教授、学士院会員になり、東宮侍講として後の大正天皇に漢学などを教授し、大正8年90歳で永眠しました。 実際寺にある三島家の墓地には、中洲翁が先立った母や兄へといつまでも一緒にいたいとの思いから明治36年に母と兄の墓石の傍らに自分の歯を埋めて建立した「生歯の碑」があります。 同碑は、高さ1.3m、幅85mで「父也客死 葬在東京 吾百歳後 願侍孤螢 歯乎歯乎 亦吾片形 送汝桑梓 永侍母兄」と彫られています。 また、実際寺から南西に250m離れたところにあった中洲翁の生家跡には、昭和59年に二松学舎大学が「中洲の思想、功績を広く知ってもらいたい。創設者の生誕地として後生に伝えよう」との願いで記念碑を建立されました。 更に、実際寺には「節士・三島時政の墓碑」という有名な墓碑があります。 当時、節士・三島時政は定太郎と称し、中島村の里正・三島縄正の長男で里正見習いをしていました。 慶応元年(西暦1865年)に幕府が第二次長州征伐を行なった時、倉敷代官・桜井久之助も出陣。時政は留守居役の一人として代官所に残り、慶応2年(西暦1866西暦)4月9日、第二奇兵隊の脱走者百余人に代官所が襲撃され、15ヵ所刺され18歳の若さで生涯を終えてました。幕末の悲劇として今も語り伝えられています。 |
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河内四国八十八箇所霊場について
かつて、弥勒院というお寺がありました。
弥勒院は元和9年頃に建立されたお寺で、戦後の昭和25年に実際寺と合併統合しました。
弥勒院は愛宕大権現を奉って寺の守護神とし、天保11年(西暦1840年)恵果和尚は築山の大修理を行いました。
碑文によりますと、恵果和尚は神像を作る目的で戊戌の歳(天保9年・西暦1838年)に上洛し、宿を仁和寺法王臣渡辺氏の家に泊まりました。渡辺氏は先師を見るや否やびっくり仰天しました。それは前夜の夢の中で神様が現れ「あす遠方から僧侶が我が家に来る。その人に我が家に伝わる神像を与えよ」と告げられた。予言どおり僧侶が訪ねてきて、神像を手に入れたいとの念願でした。「神様に願い事が通じた」と渡辺氏は先師と共に喜びました。その神像というのは、渡辺氏の親族の一人、杉浦伴隆という人が愛宕祠院に使えていたころに手に入れたもので、弘法大師作の愛宕神像と智證大師作の不動明王、増長僧都作の毘沙門天を左右に奉っています。
さらに、天保14年(西暦1843年)には恵果和尚は、中島、連島、西阿知、水江、酒津の地区にミニ霊場河内四国八十八箇所を開きました。
中島地区には古くから大師信仰が盛んで、毎月お大師講が行われています。旧3月21日と7月21日には各町内ごとに盛大なお接待が早朝より行われています。
また、3月末の日曜日には当番町内で四国霊場の道隆寺に行き、お遍路さまにお接待を現在も行っています。
主な年間行事